学区の概要

 

☆学区の概要☆

 ☆人口および世帯数☆(R2.7月末現在)

1,748人 ( 男 841人  女 907人 )  世帯数 764世帯

 ☆学区の特色☆

 玉野市の東部にあり、三方を山に囲まれ、東は、塩田跡地を隔てて瀬戸内海に面する静かなところに位置する。以前は、広大な塩田をもとに脚光を浴びた時代もあったが、現在は機械化が進み、塩田はなくなり、埋め立てられた。現在はソーラーパネルが設置されている。
 山田地区の人口も減少し、共働きの家庭が大部分であり、祖父母と同居、または祖父母の近くに住んでいる児童が多い。
 児童数は、ほぼ横ばい状態であったが、白石南・白石東地区に民間による住宅開発が進み、平成6年より一時期増加傾向が見られたが、その後、減少傾向にある。そして、平成16年度には、100人を下回った。平成20年度より何年かは100人を超えたものの、少子化の影響から、児童数はさらに減少し、令和2年度は71名という状況である。保護者・地域ともに、学校教育に対して協力的であり、PTA活動にも前向きである。
 学区内は、自然が豊かな、静かな環境で、児童の屋外での遊び場は、学校の運動場や公園がメインとなっている。

 ☆地域の概要☆

 塩竃神社(しおがまじんじゃ)

 天保9年(1938年)、東野﨑浜塩田の開発を始めた年に陸前塩竃神社を勧請した。御神体は、塩竃の石、祭神は塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)。

 四ノ御神社(しのご)

 瀬織津比咩命・速秋津比咩命・速佐須良比咩命・気吹戸主命を祀る。この神々は、罪・穢れ(けがれ)を清め、凶事を除き去ってくれるという。伝説によれば、村人が霊夢に依り、四ノ御神山付近(当時は海)の海浜より金弊を得て、これを御神体として祀ったとのこと。
 境内の北に秋葉神社があり、火神を祀る。明治元年(1868年)白石部落より出火して、36戸焼失したことがあり、明治2年遠江秋葉宮を勧請した。
 神社から約1km南西に、歯痛に効験ありと祈願されていた大宰(だざい)さまの石塔がある。

 無動院(むどういん)

 行相山一宮寺無動院と称する。(真言宗)
児島八十八カ所霊場めぐりの第九番札所。室町時代に増吽僧正によって中興された。
 昔の山田地区には「山田の五刹」といって無動院の他に薬泉寺・神宮寺・徳乗寺・授法院があったが、寛文6年(1666年)岡山藩主池田光政の寺院整理等により廃寺となった。無動院もいったん廃寺になったが、元禄7年(1694年)に梶岡常楽院住職の宥円によって再興された。
 本尊は聖観音立像。行基菩薩の作といわれる樟の一木・素木造りで、82cmの小像ながら平安時代の特色を表し、その光背は金色に輝いて、市内に現存する最古の仏像といわれ、昭和34年(1959年)に市の重要文化財に指定された。
 本尊は、無動院が廃寺になったとき、授法院(持宝院)に移され、次に授法院が廃寺となり、今度は児島湾高島の松林寺に移された。その後、宥円が無動院を再興してからはここに安置されていたが、お堂の傷みがひどくなり、日比観音院に預けられた。
 昭和62年(1987年)にお堂が修復されて、再度ここに迎えて、現在に至っている。

 水守神社(みずもり)

 古宮の地に建てられていた御貢蔵の御殿を社殿にあてて、衣冠装束で笏持の木像を御神像にして水守大明神として祀る。村人も水の祖神氏神として崇め祀ることとなり、この地を古宮と呼び伝えた。
 祭神は、罔象女神(水波能女神、みずはのめのかみ)。
元亀年間(1570~1572年)に三宅城主三宅源左衛門が社殿を改修。慶長年間(1596~1614年)には、鳥居盗人が大勢来て、十町ばかり舟出したときに、にわかに悪風起こり舟・人共に沈没、鳥居は今も山田沖の海底にあると申し伝えられている。
 その後社殿も破損し、貞享5年(1688年)に現在地に奉還され、本殿は天保14年(1843年)、拝殿・弊殿は嘉永5年(1852年)に建築された。最近では、昭和30年(1955年)に修復された。
 古宮時代の鳥居の沓石は今もその地にあり、『水守宮』と書かれた鳥居額は、井上彦六左衛門の筆跡と申し伝えられ、本殿に社宝として保存されている。
 本殿には、奈良の明日香村キトラ古墳壁画で有名な四神、すなわち南の朱雀・東の青龍・西の白虎・北の玄武の見事な彫刻があり、一見に値するものである。

 塩田跡

☆山田の塩田☆
 当地では、古代から人々が塩作りをしていた痕跡が残されている。出崎・原・白石等から出土する師楽(しらく)式土器は、古墳時代の塩作りに使用されたものである。当地は、温暖な気候で降水量も少なく恵まれた気象条件がそろっており、人々は塩を作り各地へ送り出してきた。
 平城宮跡から出土の木簡に「天平17年(745年)三宅卿・加茂卿から塩やクラゲを平城京に送る」とあり、また『日本後記』には、「延暦18年(799年)児島の百姓が塩を焼いて調庸(税)とした」との記述がある。
 後に塩田王と呼ばれる児島味野村の野﨑武左衛門が味野村・赤崎村での塩田開発の技術と経験を生かし、わずか3年の年月で73.3haの東野﨑浜塩田(入浜式塩田)を江戸時代の天保12年(1841年)に完成させた。山田に属する製塩場数は1番から38番までの37塩戸(17番を欠く)。さらに文久3年(1863年)には、胸上村に属する東野﨑浜北塩田19.7haを完成させた。
 当時、塩釜を焚く燃料の亜炭が胸上村から産出されたことも、当地が選ばれた根拠の一つといわれている。
 武左衛門は、塩田・新田開発の偉業に加えて、最も精彩を放ったものに、当作歩方(とうさくぶかた)制の採用がある。武左衛門は、当時、瀬戸内の塩田で採用されていた浜問屋付小作制を廃し、全塩田を直営化し全塩田の歩方を掌握して、これを関係者に付与して経営の効率化をあげるという独特の経営方式を創案して導入した。また、堤防築造の土木工事にも優れていた。
 安定した塩田経営のもと、近隣各地から技術をもった人も集まり、地元の人々と共に働いた。塩田の繁栄は、当地の人々の生活を変え、これまでの稲作を中心とした生活よりも、経済的に有利であったと思われる。
 入浜式塩田は、昭和26年(1951年)頃より、春藤武平の発明による「流下式製塩法」に改良され、枝条架の姿に変わって行った。流下式製塩法になり、少ない労働で楽に製塩ができるようになった。そのため、次第に労働人口は減少し、また、交通機関の発達にともない、海上輸送の船から陸上輸送の自動車にかわり、かつての山田の賑わいは消えていった。
 さらに、昭和44年(1969年)には、「膜濃縮製塩法」(イオン交換膜による濃縮方法)へと移行した。また、平成9年(1997年)には、明治38年(1905年)から92年間続いた塩の専売制度が廃止された。
 広大な塩田跡地は、今また時代と共に姿を変えようとしている。天保の昔に浜の開発を受け入れた人々、そして、浜の労働に従事した多くの人々がいて今日の山田がある。